フォーチュン・クリエイターのAstroDori(アストロ・ドリ)です。
皆さんは、「吸血鬼」と聞くとどんなキャラクターを思い浮かべますか?
世界的に最も有名なのは、1897年に刊行されたブラム・ストーカーのゴシック・ホラー小説の主人公「吸血鬼ドラキュラ」なのではないでしょうか。
今回は、その「吸血鬼ドラキュラ」について詳しくお話していきます。
実在したドラキュラ
実は、ドラキュラは実際に存在し、ルーマニアの南部にあったワラキア公国の君主、ウラド3世だったのです。
1431年にトランシルヴァニア地方のシギショアラで生まれたと言われますが、正確な出生地は不明です。
ウラド3世は、「ヴラド・ツェペシュ」(Vlad Țepeș)と呼ばれていますが、これは「串刺しにするヴラド」を意味するニックネームです。
なぜこんなニックネーム?? と思いますよね。
1447年に父ウラド2世と兄のミルチャがハンガリー人に暗殺され、ウラド3世は国を追われました。
1456年にワラキア公に返り咲いたウラド3世は、1459年のイースターの日曜日、父と兄の復讐として、王子党に参加したすべての地主を逮捕し串刺しにして処刑したのです。
「ヴラド・ツェペシュ」というニックネームはこうした残虐な行動からつけられたようです。
その一方で、ウラド3世は勇猛で軍略に優れており、オスマン帝国、ハンガリーという列強国に挟まれていた弱小国ワラキア公国の平和を守っていたのです。
特に、大軍を率いたオスマン帝国・メフメト2世による侵略に対して、焦土作戦とゲリラ戦で徹底抗戦し撃退したことは、故国を侵略から守るために戦ったヒーローとして高く評価されています。
ヴラド3世は、3回結婚し、5人の子供、4人の男の子と1人の女の子がいました。
最初の結婚時のラドゥとヴラッド、2回目の結婚時のマイケルとミネア、3回目の結婚時のザレスカです。
残念ながら、ヴラド3世は1476年12月末に暗殺されました。
ブカレスト近くの島のスナゴブ修道院に埋葬されたと思われていましたが、最近の調査では、修道院にあるヴラド3世の墓には、新石器時代の馬の骨がわずかに含まれていただけだそうです。
歴史家のコンスタンタン・レザチョビッチによると、彼の本当の墓はコマナ修道院の敷地にあるようです。
ウラド3世はどうして吸血鬼になったの?
「吸血鬼ドラキュラ」の作者ブラム・ストーカーは、ロンドンの王立図書館でヴラド3世について調べたと言われています。
そして、ヨハン・クリスチャン・フォン・エンゲルの本「モルドバとルーマニアの歴史」を参照していた可能性もあります。
そして「モルドバとルーマニアの歴史」には、ヴラド3世はモンスター、人間の血を吸う吸血鬼、残酷な人、流血の暴君として記載されていました。
さらに、ブラン近郊の村々では、ゴブリン(吸血鬼)のような悪霊が存在していると信じられています。
夜中、村人が眠っている間に悪霊が体を触り、村人の眠りを邪魔をしていると。
ブラム・ストーカーにより、ゴブリンは不死の呪いに苦しんでいる存在になりました。
吸血鬼ドラキュラは、恐ろしいウラド3世がモチーフとなり、ブラン近郊の村々で信じられているゴブリン(吸血鬼)の伝説が合わさって誕生したようです。
ドラキュラの舞台ブラン城とは?
ヴラド3世は、実際にブラン城に住んだことがありません。
しかし、1462年の秋、ハンガリー国王マテイ・コルヴィンに捕らえられ、ブラン城で2ヶ月間投獄されたそうです。
また、ブラム・ストーカーはルーマニアに行ったことがないのにブラン城について詳細に語ることが出来ました。
それはなぜかと言うと、彼はチャールズ・ボナーの「Transylvania: Its Product and Its People」(ロンドン、ロングマンズ、1865年)で見られるブラン城の図面からインスピレーションをもらったからだと考えられています。
現在、4階建てのブラン城には57部屋、家具、衣装、武器、鎧のコレクションが展示されており、周りに2つの湖があるロイヤルパーク、ティーハウス、管理者の家、プリンセスイレアナの家も含まれています。
2016年のハロウィンに、Airbnbがコンテストを開催しました。
このコンテストで優勝した二人は一晩ブラン城の中にある棺で寝ることを体験することが出来ました。
棺のシーツはヴェルヴェットだったのできっと心地良かったと思います。(笑)
近年、ナイトツアーが可能となり、不気味な音楽が流れながら、ドラキュラ伯爵と出会い、ブラン城のレストランで赤ワイン付きの特別なディナーも楽しめるようになりました。
ルーマニアへ行かれるあなた、是非、ブラン城まで足を運んでみてください!
ルーマニア出身のフォーチュン・クリエイター。 あなたの未来をつくる強さと自由な意思を尊重し、ステキなヒントをお届けします。 |